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「Go For Broke‼」

恐縮です、太田です。
太田副店長が「僕さ、送迎業務とかあるし、暑いしさーブログ代わりに書いといてよー」と言われまして今回はゴーストライターが代筆です。少々マニアックなプロレスの話題になるのですが、ご興味のある方は読んでください。

7月14日、「男の中の男と」名高いプロレスラーの【マサ斎藤】さんが他界されました。先月、マサ斎藤さんと親交があるビックバンベイダーさんも他界されましたが
それを追うように亡くなるとは新日本プロレス派の私としては非常に寂しくなりましたですね。

若い世代の方はご存知ないかと思いますがマサ斎藤さんの経歴を
明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。
大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。
アメリカではミスター・サイトー(Mr. Saito)またはマサ・サイトー(Masa Saito)をリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦、数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった。
日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助、サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。

1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍し、1985年には1シリーズだけだが全日本プロレスへ参戦し、鶴田や天龍と戦っている。1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件(パテラは「偶然訪れたマクドナルドで、その店を解雇されたことを恨んだ元従業員による投石があった際にその場に居合わせただけ」と主張)の逮捕劇に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。

1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。
1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得[5]。2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。
第一線を退いた後はワールドプロレスリングの解説者を務め、初期にはインタビュアーを兼任することもあった。1999年2月14日、日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートンと引退試合を行った。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけた。
2003年に新日本プロレスを離脱し、長州力らとWJプロレス旗揚げに参加する。WJプロレス時代、記者会見の席に現れた斎藤は体に振戦が見られ、発語にも難がある状態になっており、以降身体的不調が知られるようになった。WJプロレスはその後1年余りで崩壊する。
2005年、斎藤を慕っている佐々木健介が「ファンにマサさんのことを忘れてもらいたくない」として健介オフィス株式会社化の際、斎藤をアドバイザーとして招聘。記者会見には斎藤も姿を現している。斎藤は寮が無かったジャパンプロレスに入門した当時の健介を自宅マンションに居候させ、「身長がない分、横に筋肉をつけろ」とアドバイスするなど、師匠格の存在であった。
2006年にはAWA時代のタッグパートナーであったニック・ボックウィンクルとの対談が雑誌掲載されるなど、長年の激闘の後遺症はあるものの健在なところを見せた。その後は佐々木夫妻の住む埼玉県吉川市に住居を移しており、中嶋勝彦らと会食している写真がオフィスのブログに掲載されることもあった。また、週刊プロレスの北斗晶の対談コーナーにも登場した。
2014年から2015年にかけて、ダイヤモンド・リング道場の閉鎖後は故郷の東京に転居したことや、2000年よりパーキンソン病の治療を受けていること、2013年に障害者手帳の交付を受けていたことなどを明らかにした。
2016年12月2日、大阪城東区民センターで行われた元新日本プロレス取締役の上井文彦プロデュース興行「Strong Style History~Go for Broke!! Forever~」で約4年ぶりにリングに登壇。介助なしではリングに上がれないほどだったが、海賊男の強襲に応戦した。

2018年7月14日、死去。75歳没。

そうアントニオ猪木さんと「巌流島の戦い」をしたプロレスラーと言うとわかる方もいるかもしれませんがアメリカの刑務所から服役後日本に帰国「監獄固め」というプロレス技を編み出した方でございます。日本人プロレスラーのなかで最も多く海外のタイトルを獲得しベルトを巻いた偉人でもございます。

アマレス日本代表として東京オリンピックに出場、単身渡米し反日感情の強かったアメリカマットでバリバリのヒール(悪役)として活躍。街のゴロツキがリングに乱入した場合、それを叩きのめすのはマサさんの役目であったそうです。
さらにはアメリカで警察官数名をなぎ倒し、1年半もの刑務所生活を送ったという事実も50歳にして極限までビルドアップされた肉体、屈強な外国人選手たちがマサさんをリスペクトする姿、そして長州力の師匠……。マサさんがある意味で 「強さの象徴」 でありました。
ただし、マサさんが愛された理由はそれだけではなく強いだけのプロレスラーなら他にもいるが、マサさんにはマサさんだけにしかない特別な魅力があった。ズバリ 「可愛らしさ」 である。「強さ」 とは相反する可愛らしさを、マサさんは奇跡的にも同時に宿していたのだ。

おそらく知らない人が見たら、マサさんの顔は普通に怖いですよね、目が合ったら一瞬で逸らしてしまうことだろう。しかし、そんな強面のマサさんの大好物が「カルピス」と知ったらどうだろうか? マサさんがカルピスに目が無いことはよく知られた話で「あんなにウマい飲み物はないよな!」と公言していのは有名な話です。
また解説者としても、その可愛らしさが爆発しまくっていました。「ペガサス? ああ、クリスはね……」と、さらりとマスクマンの正体をバラすことなど日常茶飯事。実況の辻アナウンサーがあたふたしながらフォローしまくっていたのも憎めない人だなと思いますね。
晩年はパーキンソン病と闘いリハビリ中で2020年の東京オリンピックの聖火ランナーをするのが目標だったそうです。東京オリンピックで始まり、東京オリンピックで終わりを迎えたかったのでしょうかね。実現すれば凄い事でしたがね。非常に惜しい人を亡くされたと思いますね。

「Go For Broke(当たって砕けろ)」
これがマサ斎藤さんの座右の銘として有名ですが
大人になると色々なしがらみや後の事を考えて躊躇しがちですが
この「当たって砕けろ精神」で常に前へ向かっていく精神プロレスは元からパーキンソン病にも立ち向かって行く姿を見て感動を与えてくれたマサ斎藤さん
私は後世までに語り継がれるプロレスラーとして私がいきている限りその記憶を刻みます。
ありがとうございました。そして安らかにお眠りください。

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